90年代以降のF1の歴史はシューマッハ氏の歴史
ドイツ出身の伝説のドライバー「ミハイル・シューマッハ」は、1996年~2006年までフェラーリのマシンを駆り、2000年~2004年まで世界選手権5連覇を達成。ベネトン在籍時代に獲得したタイトルから通算7回のF1ワールドチャンピオンを獲得しています。
彼の栄光と不屈の努力、忍耐の歴史を紹介していきます。
■幼少期~F1GPデビューまで
ミハイル・シューマッハのレース伝説は、4歳のとき父であるロルフ・シューマッハからプレゼントされた「エンジン付きペダルカー」を運転し街灯にぶつかったことから始まる。
ロルフは町中でマシンを走らせるのは危険だと判断し、ミハイルをサーキットで走らせる決断をした。これを契機に父はカート場のマネージャーへと転身し、母も軽食を売る売店をコース近くで経営。家族でミハイルのサポートが始まる。
ミハイルもこれに応え、クラブ主催の大会でチャンピオンシップを6歳で獲得。さらに15歳でドイツ・ジュニア・カートチャンピオンに、87年にはドイツとヨーロッパのカートチャンプ、翌年にはフォーミュラー・ケーニッヒのチャンピオンの座を手にする。
この優勝で、ウィリー・ウェーバー(当時F3チームのオーナー、現在の個人マネージャー)と出会い、F3のシートを獲得。さらに、レーシング・ドライバーとして将来に備えるため、立ち振る舞いや語学力などの教育を受けた。
89年、シューマッハは3位でF3デビューシーズンを終えたが、翌年にはシリーズを制覇。マカオとフィジーで開催された、F3国際レースにおいてもその実力をいかんなく発揮し、F1の登竜門となるF3カデゴリーにおいて大きな成功を収めたのである。
これを機にシューマッハは将来有望な選手と評価され、メルセデス・ベンツがカール・ヴェンドリンガー、ハインツ・ハラルド・フレンツェンと共にメルセデス・ジュニアチーム(ジュニアプログラム)に採用。
1990年当時、耐久レース界を席巻していたザウバーメルセデスでWSPC(=世界スポーツプロトタイプカー選手権)に4戦出場し、ドライバーズ選手権5位、最終戦のメキシコでは初優勝を果たす。
91年も同シリーズに参戦しつつ、スポット参戦した日本のF3000のレースにおいて、予選、決勝とも2位を獲得するという離れ業を見せつけた。その頃になるとシューマッハのいるべき場所は、WSPCでもF3000でもなく、F1界へとシフトしていく。
後に当時を知る人によれば、シューマッハよりもフレンツェンの方が才能という点では評価が高かっただろう。しかし、シューマッハは「努力と分析」という点においてフレンツェンを凌いでいたと証言する。
例えば、91年全日本F3000(現在のフォーミュラ・ニッポン)に単戦参加したときのこと。自身でタイヤの使い方からセットアップの調査を続け、影響ない範囲と判断する「マシン底の若干の窪み」にもチームに喰い下がり交換させた。
そして、翌日の予選ではハーバート(一緒のチーム)を大差でブッチギリ、決勝でも2位をもぎ取ったのである。
■F1GPデビューからベネトン在籍時代
91年、ジョーダンのドライバーの代役としてベルギーGP、スパ・フランコルシャン・サーキットで、シューマッハはF1デビューを果たす。
彼は同僚のベテラン、アンドレア・チェザレスをタイムと分析で圧倒する。同じセットアップのマシンで上回ったのだ。それは全開できないと思われていたコーナーを全開で駆け抜け、さらに1段高いギアでクリアすることでマークしたタイムであった。
シューマッハは、事前に折り畳み自転車を自分で持ち込んで、サーキットを下見するなど、あまり人には知られていない努力、それも一人だけでそれを成し遂げる「独力」をしていたのである。
この「独力」により、シューマッハは初の予選を7番手で通過し、F1関係者に強い印象を与えた。当時、予選7位という結果は参戦したジーダンチームにとってもシーズン最高順位タイであり、11年目のベテランチームメイト「アンドレア・デ・チェザリス」を上回ってみせたのである。
7番グリッドからスタートした決勝レースでは、クラッチを焼き付かせてしまい、一週目でリタイヤを喫したものの、シューマッハの才能に注目したフラビオ・ブリアトーレ率いるベネトンの目にとまり、当時物議を醸し出したロベルト・モレノとの電撃トレードへと発展する。
シューマッハはそういった騒ぎの渦中にありながら、ベネトン移籍後最初のイタリアグランプリで、チームメイトでF1ワールドチャンピオン経験者でもあるネルソン・ピケを上回り5位を獲得。続くレースでも6位に入賞といった結果を残し、その才能が本物であることを証明したのである。
翌92年には、表彰台に8回上がったシューマッハは、同シーズン3位を獲得。93年もランキング4位に入り、安定した実力を背景に次世代のF1チャンピオン候補となっていたのである。
しかし、迎えた94年。シューマッハにとってもF1にとっても悲劇が襲った。当時、日本でも世界でも名実ともにトップドライバーとして君臨していた、天才アイルトン・セナがイモラのレースで事故となり帰らない人となったのである。
このレースで勝利を収めたものの、シューマッハにとって「成功」と倒すべき尊敬する偉大な目標を失った「悲しみ」を味わうこととなる。
また、そのシーズン中もチームへのバッシング(マシン技術規定に違反という疑惑)、出場停止など、さまざまな困難を乗り越え、自身初となる「ドライバーズタイトル」を初獲得したのである。
続く95年にはチームに初コンストラクターズ部門のタイトルをもたらし、シューマッハ自身もドライバーズ選手権を連覇、史上最年少の複数回ドライバーズチャンピオンを獲得。この成功を手土産に、ベネトンを去りフェラーリに移籍することとなったのである。
■「赤い皇帝」と呼ばれた無敵のフェラーリ在籍時代
華々しいキャリアの中、フェラーリ移籍後の1年目はウィリアム勢に劣勢を強いられ非常に厳しいシーズンとなった。それでもシューマッハは3勝を手に入れ、翌97年にはジャック・ビルヌーブとチャンピオンシップをかけて激しい戦いをみせた。
ヨーロッパGPではスタートからレースをリードしたが、48週目にヘアピンでオーバーテイクを仕掛けてきたヴィルヌーヴをブロックして接触。
シューマッハがリタイヤした一方で、ヴィルヌーヴが3位に入り同年の頂点に立った。この接触は重大な過失と判断され、97年のチャンピオンシップからシューマッハを除外。ドライバーズランキング2位を抹消した。
シューマッハ自身も、この時が一番の失敗であり、自身にとって一番の試練の時だったと語っている。
98年には、強敵ミカ・ハッキネンと首位争いをした。しかし、シューマッハはヨッヘン・リントコーナーを曲がりきれずコースアウトしてクラッシュ、足を骨折してしまいシーズンの大半を棒に振ってしまう。結局、チャンピオンシップの獲得をするため、次の年まで待たなければいけなかった。
ここから”赤い帝王”と呼ばれた無敵の黄金時代の幕が開く。
シューマッハは、ドライバーズチャンピオンを5年連続で獲得、48勝という記録を5年間通し成し遂げたのである。この記録は04年のシーズン中盤でチャンピオンシップを決めた後に、FIAがポイント採点システムを変更せざるを得なくなったほどの偉業でもある。
しかし05年、”赤い帝王”時代に僅かな陰りが差し始めた。
フェラーリのブリヂストンのタイヤが、ミシュランのタイヤに比べて全体的に劣ることが分かり、前年とは一転して苦戦。
サンマリノGPで首位を走っていたフェルナンド・アロンソを追い回すような見せ場もあったのだが、シューマッハが表彰台にすら上がれないレースが続いた。一方、06年にブリヂストンの調子が戻ると7勝をもぎ取る。
チャンピオンシップ獲得の行方は、ブラジル戦のラストまでもつれ込み、予選でトラブルに見舞われ、決勝に不安を残して後方グリッドからのスタートを余儀なくされてしまう。
シューマッハは後方からスタートし、驚異的な追い上げをみせたものの、最終的には4位でゴール。結果、2年連続、フェルナンド・アロンソのチャンピオン獲得を許すことになる。
前代未聞の7度の世界チャンピオンシップ制覇という記録を打ち立て、06年にF1から引退を発表したシューマッハ。
引退後には2輪に挑戦し、さまざまなビジネスを手掛け”伝説のアドバイザー”として活動を続けて、引退生活を満喫していくはずだったのだが・・・。
■F1GP引退~復帰~二度目の引退
09年、ハンガリーGP予選でマッサが大ケガをしたことで、フェラーリがシューマッハに助けを求める。
だが、F1引退後にオートバイのレースに参加した際に転倒し、首を負傷していたため、09年に出場することはかなわなかった、休養を得たことにより、シューマッハはレースに対する新たな情熱を燃やしていた。
シーズンが終わって程なくして、メルセデスGPから現役復帰を発表。
F1グリッドに3年のブランクを経て返り咲いた”世界王者のシューマッハ”だったが、チームメイトのニコ・ロズベルグを上回ることはほとんどなかった。また、一度も優勝することなく、表彰台を争うまで至らなかった。
11年にはタイヤサプライヤーにピレリが就任したことで、去年の問題点を解決できるという自信があったシューマッハだったが、マシンの力不足から表彰台に上がることはかなわなかった。
それでもシューマッハの競争心・競争力は衰えることなく増していき、カナダGPではウエット時に2番手まで追い上げ、表彰台の争いの末、チームのシーズン最高位である4位入賞を達成した。
12年には、中国GPでシューマッハはフロントロー獲得したものの、チームメイトのロズベルグが勝利を掴んだ。この年は、リタイヤが頻発したこともあって、12年末をもって再び二度目の引退をする意思を明らかにした・・・。
2回目の引退はF1ファンにとって少し悲しい幕引きであったものの、シューマッハが最も魅力的で黄金といえる輝き「夢」をみせてくれたドライバーであることに変わりはない。
勝利に対する情熱ゆえに、物議を醸すドライビングをすることもあるが、F1ドライバー”赤い皇帝”としての偉業が揺るぐことはないだろう。
ミハエル・シューマッハとアイルトン・セナ
F1ドライバーのアイルトン・セナとミハエル・シューマッハの2人は4シーズンを共に競い合った宿命のライバルだ。
お互いに接触事故や進路妨害が何度かあり、故意であったとされ、2人の間には大きな溝が生まれた。メディアの前でセナがシューマッハに詰め寄ることもあったほど。
シューマッハは当時、セナと本格的なライバル関係になると注目されはじめた頃、イモラ・サーキットでセナの事故死が起こる。
シューマッハは2番手を走っていたのだが、首位のセナがクラッシュ。セナの死をクラッシュ直後に横切ったシューマッハは”宿命のライバルであり目標のセナ”をミラーで様子を見ているようだった。
「高き城壁のセナ」をレースを共にしている間に超えることができないままシューマッハは、この瞬間から追われる立場「F1の世界を背負っていく存在」になった。
シューマッハは、メディアに意図するものが気に入らず、セナの葬儀にはあえて参加しなかった。だが後に、セナのお墓にコリーナ(妻)と共に訪れている。
シューマッハは、セナの事故死から6年経った頃、セナの偉大な記録41勝と並ぶ。会見でセナのことについて質問されたシューマッハは、泣き崩れた。F1を知るものであれば忘れられない名場面であろう。
F1はセナの死後で大きく変わってしまったのだが、シューマッハはこの6年で「セナと共にレースを闘い続けていた」といえるのではないだろうか。
ミハエル・シューマッハの名言
偉人のコトバは私たちにいつも新しい視点を気づかせてくれる。多くの伝説を残してきたミハエル・シューマッハの数々の名言を見ていこう。
07年ブラジルGP。トップであったフェラーリのライコネンとマッサがチェッカーを受けるのを見てミハエルは感激した。このレースで勝ったライコネンはドライバーズタイトルを獲得。その時に語った言葉がこれだ。
『僕がいつも信じているのは、どんなに可能性が低くても、絶対にあきらめず戦い続ける事だ』
ミハエル・シューマッハは一見すると、物静かで自然と一体化しているようにみえる。しかし、実際は判断が必要なときの一瞬の行動は、まるで野生の王者ライオンのようだ。
必要でないときには、冷静沈着を保ち、何か必要なときには一瞬の狂いのない判断を下す。そう考えたときこの言葉の意味は、全ての人に共通できるものではないだろうか。
『冷静さを保ち、精神を集中して、興奮しすぎないよう、そして疲れないよう』
そして、この名言である。この名言があるからこそ、シューマッハは”赤い帝王”であり続けたのだろう。
『記録とは破るためにあるといつも思っていた』
まだまだ、数多くの名言がミハエル・シューマッハにはある。素晴らしいコトバを探し新しい視点で「気づきを得る喜び」を味わうのもいいかもしれない。
『セナは僕のアイドルだった』
『考える最高を常に行う』
『僕にドライブイングハイはない』
『皆はレース界の伝説と僕を呼ぶ。だが、僕自身は、決して逃げることがなかったファイターと呼ばれたい』
ミハエル・シューマッハの現在は?
ミハエル・シューマッハは、13年12月にフランスのスキーリゾートで起きた転倒事故により、重大な損傷を負い(頭部を岩に強打)現在もスイスの自宅で療養を続けている。
19年には、50歳となるシューマッハについて現在の健康状態などに関する情報はほとんど表に出てくることはない。ただ、近年の英メディア「Mail Online」によれば、ミハエル・シューマッハは植物人間でも寝たきり状態でもないと報じられている。
一時期はシューマッハの家族が彼の最新情報を公開しないため、昏睡状態で死亡説まで報じられ悲観的な憶測が優位であったが、新年にふさわしい素晴らしいニュースではないだろうか。
また、2019年1月27日にはミハエルシューマッハのツイッター公式アカウントにて、50歳の同氏の誕生日と最初の世界選手権優勝の記念を祝い、ミックと母親、姉の3ショットが公開されニュースになっています。
Michael Schumacher (@schumacher) | Twitter
https://twitter.com/schumacherThe latest Tweets from Michael Schumacher (@schumacher). Official twitter for the wonderful fans of F1 legend Michael Schumacher. His paddock for them to meet; established with thanks by #TeamMichael. #KeepFighting
最後に
2018年、ミハエル・シューマッハの息子であるミック・シューマッハは「父に恥じないよう、甘えないよう」をモットーに、F3界で人一倍の努力をし、優秀な成績を収めた。将来はF1界での活躍が期待されている。
息子の活躍をテレビで観戦することで、ミハエルに黄金の輝き”赤き帝王”が戻る希望を抱いてしまうのは私だけではないはずだ。